Confianza
「夢を、見てたの」
まるで今も夢の中に居るような、ぼんやりとした声で、雛森はこちらに一瞥もくれずに囁いた。
「……夢?」
問いかけるとようやく顔を横向けてこちらを向く。
その表情は何かを諦めたような、悲愴な色をしていた。
それでも、彼女は笑う。
「凄く悪い夢……でも、逃げちゃいけない夢」
向き合わなくてはならない、現実。
目を背けて生きられない罪や、もう戻らない背中。
どれだけ走って追いかけても追いかけても、近付くことのないそれに必死で追い縋る夢を見た。繰り返し、繰り返し。
何度も泣いて、何度も名前を呼んで。
それでようやく自分を拒んでいるのだと気付いた冷たい彼の背中に、痛いほど真実を突きつけられる。
「雛森くん」
柔らかい大地の色をした眼差しが潤んだような気がして、吉良は堪らず名前を呼んだ。
ここではないどこか、もっとずっと遠くを見ているような視線が、そのまま飛んで行ってしまいそうで、怖くて。
けれど雛森はふっと微笑んで吉良を見た。
痛々しい感じはあったし、瞼が腫れ、目も赤くなっていたけれど、泣いてはいない。
「大丈夫」
あの日、たった一人の大切な人の命が喪われたのだと思った時、雛森はこんなに泣けるものなのかと思うほど涙を流した。
もう二度と触れられない、掌の温かさ。
もう二度と見つめられない瞳、笑顔。
惜しくて、悔しくて、泣いて泣いて、それでも癒されることはなかった。
あれほど目の前が真っ暗になる感覚を味わったことはない。
堕ちていく。もう、誰も救ってはくれない。救われることも望まない。
だからあの時はああするしかなかった。日番谷と戦って、極端な言い方だが最悪死んでも、逆に殺しても良いと思った。敵わないと知っていても、どうなっても構わないような気がしていた。
仇を討つことで取り戻せるようなものではないと知っていても、そうすることで藍染の気持ちに応えられるなら良かった。
けれど今は……あの人は生きている。
抱き締められた時の温度、回された腕の感触が、それが現実だったことを告げている。
……たとえそれが、どれほど辛くて厳しい現実でも。
あの時は亡くしたと思った、大切な命。生きていてくれるから、あの人のことではもう泣かないと決めた。
もう一度会って話しが出来て、言葉を尽くして……それでもボロボロに打ちのめされるまでは。
「やっぱり好きだから……憧れは理解から遠いって言っても、あたしの憧れは嘘じゃないと思うから……まだ、立ち上がるの」
目の前でそれを否定されても、自分の想いを否定できるのは、きっと自分だけなのだ。
だって、今でも消えてくれないんだもの。
笑う雛森に、吉良は痛ましそうな、労わるような視線を向けた。
「……辛いんだろ?」
その声があまりにも優しいから、それだけは本当に、悲しくて嬉しくて、泣きそうになる。
いつだって彼はそうだ。
自分よりもまず人のこと。
藍染と市丸の命令に従って日番谷と松本の足止めをしたのも、雛森の為だったと聞いている。
今も、支えようとしているのが分かるから、だからこそ、今は甘えてはいけない。
強くなりたい。もう誰に寄りかからなくてもこの想いに胸を張れるように。
だから、雛森は吉良の優しい視線に強がるように、まっすぐに背筋を延ばした。
「そうだね。でも……痛くない恋愛がしたいなら諦めれば良いだけ。それでも思っていたい人だから、仕方がないよ」
胸を刺された時、死を覚悟するほど痛かった。
けれどあれと同じくらい痛い思いをすると言われても、やっぱり追いかけるのだろうと思う。
それでもどうしても想っていたい、心から消すくらいだったらこのまま痛い方が良いと思わせる、そんな人だから。
「好き。あの人が嘘だと言っても、あたしのこの想いだけは嘘にならない。ずっと好き。やっぱり、今でも好き。声の一つも聞き漏らせないと思うくらい好き。幼馴染みとだって一戦交えても良いってくらい好き。……だから、ごめんね?」
これはもう恋じゃないのかもしれない。
愛情ですらないのかもしれない。
今はもう何を以ってあの人を好きだと思っていたのか、理由が分からないのだから。
優しいところ? 笑顔?
でも、それはもう手には入らないものだ。
それでも良いから、追いかけたいのは、何の為だと言うのだろう。
妄執……だろうか。ただ悔しくて引き返せないだけなのだろうか。
そう自分を痛めつけてみても、何故か心にある藍染への思いだけは本当に真っ直ぐで、輝いていて、悩む己が身が却って悔しいほど素直な形をしているのだ。
恋でも、愛でも、他のなにものでも構わない。ただ、あの人の側に居たい、あの人が欲しい。その為になら何を代償に捧げても良いほど、ただあの背中を捕まえたくて仕方がない。
雛森の謝罪に、吉良が困ったように微笑む。
「何を謝るの」
「ん……もしその時になったらやっぱりあの人についていくかもしれないって思ったら、なんか……言わなきゃいけない気がしただけ。あたし、吉良くんのこと、好きだったから」
だから嘘は吐きたくないと思った。
雛森にとって吉良という男は、優しくて、気が弱いけど自信家で、女の子として扱ってくれた初めての人で。
何となく壊すのが怖くてずっと言い出せない、初めて好きになった男の子だった。
けれど言えないまま……あの人に出会ってしまったのだ。
藍染惣右介。
憧れも、恋も愛も、いつの間にか雛森の全てをさらって行ってしまった人。
そうしたら、もう引き返せなくなって、他のものは何も要らなくなるくらい、愛してしまったから。
死神になるための理由は、あの人に会ってから変わってしまった。ただ追いつきたくて、隣に並びたくて、五番隊の副隊長になって、側に居られる時間はどれほど幸せだったか。……あまりにも早くに通り過ぎた幸福だったけれど。
思いがけない言葉に期待はし過ぎない程度に目を見開いて見せる吉良に、雛森は笑いかけた。
「今まで気付きもしなかった。いつか言えなくなる時も来るかもしれないのに……だから、今言っておくね。吉良くんが好きでした。……有難う」
吉良の中できっと自分は「女の子」の象徴のような女の子で、だからこそ彼に嫌われるような人間にだけはなりたくないと思ってここまで来た。恥じない自分でいたかった。
けれど実際刃を交えても、それでも彼は自分を見ていて、曇りのないその想いは自らの藍染への想いにも似て……そこでようやく、吉良が寄せてくれる思いがどれほど揺るぎないかを知った。
あの時はただ怒りと悲しみに目を塞がれて、見えなかったけれど。
何度お礼を言っても足りない気がする。どれほど頭を下げても、補えはしないんじゃないかと思う。
けれど、伝わるまで何度でも言いたい。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
別れを思わせるような、けれど希望も感じさせるその言葉は、過去形で、悲しくて切なくて遣る瀬無いけれど、微笑んだ彼女の顔は初めて目にすると思ったほど透明で澄んでいて、美しかった。
そこには恋でも愛でもない、ただ純粋な想いだけがある。
形は異なるけれど、雛森が藍染に向けているのと同種の、そして全く正反対の欲のない感情。何も求めていない。無色の。
吉良は寂しげに微笑んだ。
あの日よりも早くに彼女に告白をしていたら、何か変わっていたのかもしれない。いや、それでも唐突に表れて圧倒的な強さと優しさを見せたあの人に、結ばれたはずの彼女を奪われていたのかもしれない。
どの道を選べば一番正しかったのかなんて、誰にも言えない。
けれど。
「諦めないでも、良いよね? 僕が君を好きだというのは、やっぱり今でも変わらないから。君が藍染隊長を追いかける背中を、見ていても……良いよね?」
それでもいつもどおり吉良は微笑んで、初めての告白をした。
今更でも、遅くても良い。自らの想いに見合うものなど何一つ要求しないし、同じものを同じ分だけ、返してもらわなくて構わない。ただ、この想いさえあれば。
「君がどうしても傷付いている時、僕が側にいても良いよね?」
例えば、今とか。
ズルイなぁと自分でも思うのだ。でもだからと言ってそれで好きになってもらおうなんて思っている訳じゃない。
このまま藍染を追いかけていってまた傷付いて泣くくらいだったら、せめてその時自分が一人だなんて思えないくらい、側に居ても……許してはもらえないだろうか。
問いかけに、雛森は目を見開いた。それから、視線を下向ける。
「……勿体無いよ、吉良くんの想いがあたしなんかに費やされるのは」
きっぱり切ってもらっても、良いと……仕方ないと思っていた。現実の自分はこんなに勝手でがむしゃらで、一人の人と自分のことだけしか考えられない。それくらいの枠しか用意されていない。
そんなものの為に時間と想いを食い潰されても良いという吉良の想いが、有難く、そして僅かに重かった。
何も返せないから。
そう思う雛森に、吉良は笑ってみせた。
「返してもらおうなんて思ってないよ。雛森くんが藍染隊長を今でも想っていると、知っていて言ったんだ。それで諦められるものじゃないから……だから」
吉良は一旦言葉を切った。そうしてふっと力を抜いて、目を細めて笑う。
ここしばらく目に出来なかったような、晴れやかな笑みだ。
そんな仕草に少しだけ、胸の一部がざわざわと……いや、ドキドキと言っていることに気付いて、雛森が頬を赤くする。
そんな相手の様子を知ってか知らずか、殊の外優しい眼差しで吉良が、その手を差し伸べた。
「これからもずっと、君の側にいさせてくれないか」
この気持ちに答えなんか、きっと出ない。
けれど希望を持っていたい。
どこまで行っても絶望しかないような状況でそれでも藍染を追いかけると言った雛森の想いに添っても恥ずかしくないように。
いつかこの道の向こうで、笑う未来に……出会えることもあると。
辛い気持ちはきっと消えないし、いつだって俯いてしまう時はあるだろう。
けれど胸を張っていたいのは、たった一人の好きな女の子の為。それを情けないと笑う人もいるかもしれないけれど、それこそを誇りたいから。
雛森は藍染への想いでした全てのことを、吉良と戦ったことも日番谷と敵対したことも後悔したくないと思っている。
ならば、雛森の為にしたことで、自分も一片の悔いすら残したくはないから。
吉良が差し出した骨ばった細い手に、雛森がふっくらとした手を伸ばした。
そして、軽く握る。思えば……手を握ったのは、これが初めてだったかもしれない。
何故だろう。初めて触れたその感触がとても掛け替えないもののように思えて、雛森は頬を紅潮させて頷いた。
「うん……!」
今まで異性でありながら、意識しすぎて異性として接せられなかった二人。
けれど今この時から、新しい一歩を踏み出せる気がする。
「これからも、よろしくね、吉良くん!」
この時初めて生まれた、二人を繋ぐ絆。
今までは芽生えることがなかったその絆の名前は――。
信頼。
ende
吉良×雛森とか言ったくせに……藍染←雛森←吉良じゃんよ!!!!!
……やはり雛森の心から藍染を消し去ることは出来ませんでした。
何度も軌道修正しようとしたんだけど。
私ね、吉良雛とか恋雛とか時々言いますけど、結局のところ藍染に想いを注ぐ一途な雛森が、多分好きなんです。この筆のノリはそうとしか思えない(笑)。藍染を想う彼女の気持ちを書こうとするとすらすら行くんです不思議なことに。
と言うか彼女の行動、言動、人となりを考えたら、それ以外は書けないんですよね。
恋でなければ出来ないことを、彼女がずっとしてきているから。
自隊の隊長の死によって確証もなく他隊の隊長に攻撃を仕掛けたり、諌める為に「雛森副隊長」と呼ばれたのに同期の吉良とも戦おうとしたり、更に幼馴染である日番谷に対しては仇を討つ=殺す(仇を討つって言うとソフトですけど、つまりそういうことですよね)為に脱獄までしている。
この行動の源にあるのが恋でなかったら、雛森と言うキャラを理解できなくなる。辻褄が合わなくなるんです、私の中で。
だから本誌展開を踏まえた上で吉良雛とかは無理でした。
仕方ないので過去形にしましたが尚更遣る瀬無くていやんな感じです。
想われていることに気付かない天然ボケ少女は好き嫌いがあろうと言うことで今回の雛森は吉良が自分を好きだと知っているしっかり者さん。
ごめんね、という台詞は最初から書こうと思っていたんですけど、好きになってもらって悪いけど他に好きな人がいるのごめんね、という使い方はしたくなかった。
でも、ここまで雛森を基準に動いてきた吉良に報いてあげたいなと思って「ごめんね」と「ありがとう」を書きたくて。
雛森の想いを描いていたらスムーズに繋がったので、良かったです(笑)。
お手数ですがブラウザバックでお戻り下さい。