☆☆☆aquablue☆☆☆
向かい合って立つ二人は、女性と男性で、こどもと青年で、共通する箇所など何処にもなかったのに、静かな湖面を映したような、澄み渡る空を映したような、深い寒色系の瞳だけは全く同じ種類の色違えの玉から作り上げられた宝石のようだった。
少女の瞳は穏やかで深い水を湛えたような薄い紫で、青年の瞳は抜けるような青空の色で。
その二対の瞳が今、静かに見つめ合っている。
静かに、静かに、感情の色をなくしたような表情で。
その沈黙を破ったのは少女の方だった。こどもらしいたどたどしい声で、けれど驚くほど静かに。
「……なまえ、ブルー、っていうのでしょ。あの子が、つけてくれた……」
かけられた声に、ブルーは頷く。
「うん……。君はアクア……だね」
対する声も静かだった。静かで……苦いものだった。
何処かよそよそしく聞こえる声。以前は誰よりも身近にあった魂なのに。
暖かな空気を纏うアクアに対して、ブルーは凍りついてしまった海のようだった。
お互いの名を初めて呼んだことにも、特に感慨は感じない。ただ痛みのようなものだけが走った。
その声と同じように、感情が浮かばないと思われた瞳が歪んで、苦々しい表情を作る。
「要らなかったのに。別に、名前なんて」
個と個を分ける名称。分たれるくらいなら、名前など要らない。
それに、アクアは頷いてみせた。
「……そうね。要らなかった。おたがいしか必要としなかった、おたがいしかいなかったあの時は。でも……わたしたちは出会ってしまったわ。わたしたち以外の個体に。……人間に」
肯定しながら突き放すような、それで居て優しい言葉。
手放したものがあると思うだけで、何故こんなにも苦しくなってしまうのだろう?
今まで忘れようと努力して、それでもずっと共にあったものを、平気で遠ざけようとする人間の少女。その姿が何よりも嫌だった。
ブルーは言葉を返すことすら出来ずに下を向く。
しかしそうしても、時を隔てた二人の大きさはあまりにも違い過ぎて、彼が俯いて隠そうとしたその表情を、アクアは見上げることが出来てしまう。
以前は男女の差はあれど一対の存在だったのに、見下ろす程小さな身体が現実を物語っているようで。
アクアは優しい声で、ブルーの顔を下から覗き込んだ。
「マリンがつけた名前なのよ、それは。わたしは、好き。あなたのためにあるような名前だわ」
ブルー。青い瞳。海の色。
海に関する名前を持つ娘がつけたことすら相応しいと思える程。
あの娘は人の本質を捉える目を持っているようだから。
「わたしはあなたの名前を呼べるのが嬉しい。……他者が二人以上居たら、区別するために名前は絶対必要なの」
当時は君と僕、あなたとわたししか存在しなかった世界。
けれど今は大事なものがある。それを不幸せだとは、思いたくなかった。
彼女のどこか愛し気な声に、ブルーは泣きそうな顔になる。
「それは、君が人間を好きだからだ。僕は要らない。要らなかった」
なんて一方的な言い分だろう。他者が二人以上居ると考えるのはアクアの勝手で、今でもブルーは海の底で、一人なのに。
一人で、彼女が諦めて帰ってくるのを待っていたのに。
しかしアクアはその小さな頭を横に振った。
「……いいえ、あなたはわかっているわ。わかっているはず。そうでしょ、ブルー。名前を呼ばれた時、わかったのよ」
ブルーは耳を塞ぐ。何も聞きたくない。滅んでしまえ、こんな種など。
そう思ってしまう凶暴な感情。……まるで、子供の癇癪のような。
それに対し、アクアは困ったように眉を下げながら微笑んだ。
滅多に笑わない彼女の慈愛に溢れた微笑み。それはどこか母性を思わせる。
「だってあなた、マリンの顔を見ても滅ぼすといえるの? あの子の未来を奪ってしまえる? ……それならあなたは、もうわたしの知っているあなたじゃないわ」
優しかったアクアの声が急に、ここで初めて真実突き放すように低くなったから、すぅとまわりの温度が下がったように感じた。
それに怯える気持ちがまだ自分の中に存在することに気付いて愕然とする。
もう要らない、もう何も感じなくて良いんだと思うのに、それでもなくすのも嫌われるのも堪らなく怖い。
ブルーは今まで極力静かに発していたはずの声を大きくした。
「君だって変わったよ。昔はもっと近かった。優しかった。僕のことだけ見てくれた!」
世界にたった二人だけ。淋しいなんて思ったことは一度もなかった。
いつでも隣にくすぐったい髪の感触や体温を感じるだけで。
嫌われることやなくすことを怖れることもなかった。絶対離れないものなのだと分かっていたから、最初からそれを怖れる必要など、どこにもなかった。
それなのに、君もそうなんだと思っていたのに、何故離れていこうとするんだよ?
ブルーが張り上げた孤独な叫びとは裏腹に、それでもアクアの声は静かなままだった。
「そう? わたしは、違うと思うけれど。あなたのこと、見ていなかったわ。だからあんな風に、あなたのことも考えないで発ってしまえたの」
人が好きだから。
初めて「はんぶん」以外の人を……エーベを愛したから。
彼女が守りたいと思ったものを、わたしも守りたくなった。近くに行って、一緒に笑って、一緒に泣いて。
エーベが後悔して泣いてもそれでも救いたかったものを、わたしも救いたかった。
だけどそれを知ってあなたがどう思うか、どれほど悲しいか、見ていなかったから知らなかった。分からなかった。
きっと、だから……。
「いっぱい、いっぱい、傷つけたのね」
それほど「はんぶん」が自分を否定するなら、決別しても仕方ないと思ったのだ。
絶対に諦めないと誓ったことだから。
そんな気持ちがただ淋しいのだと訴えている彼を見捨てることになるのだと、微塵も気付くことが出来ないで、ただ真っ直ぐに。
絶望している彼を救えずに、手に負えなかったから、逃げて。
そして人となって、あっけなく彼を忘れた。
「それは愚かなことなのよ。だってわたしたちには言葉があったのに」
……大事だった。 それは嘘じゃない。
ずっとずっと長い間、二人で生きて、同じ価値観を持って歩いてきた人だから、喧嘩をしても何があっても、大好きで、大事だった。
だから分かってもらえると思って、彼も愛するはずだと思って、甘えてしまったのだ。
他に代えるものがないほど大事だったのに、何故自分のことばかり言葉を尽くして、彼の気持ちを考えなかったのだろう。
そうしていたらきっと、「現在」は違う形になっていたはずだった。
けれど今はもう、それを知っていてもわたしはそうしていたのだろうと、知れるから。だからこそ愚かなことだと。
アクアはふっと口元を緩めた。
変えられないことなんて何もないのよ。わたしが今、人として生きているように。
だから、もう一度同じ時間に戻ってもわたしはきっとあなたを傷つける。だって、それを選んだこと自体に後悔は爪の先ほどもないのだもの。
でも……それでも、抱きしめたいものは今だって、どこまで行ったって捨てられないの。
「しあわせだって、いうのを忘れていたわ」
静かな声に、ブルーは顔を上げる。
アクアはただ優しい表情で彼を見上げている。視線が合うと、ほっとする暖かな、空のような笑みを浮かべた。
「あなたが守ってくれたマリンと、もう一人のあなたが導いた葵と、偶然出会った多くの人。それは楽しいことばかりじゃなくて時に辛いものだったけど、でも、知らないより知っていた方がしあわせだったわ」
何も覚えていなかった少女が辿り着いて、得たもの。
このアロランディアで過ごした時は決して長くはない、短いものだったけれど、それでも色んなことがあった。
初めて目にするものや、こと。向けられる暖かな厚意や、身も凍るほどの敵意。
人は間違えるし、負の感情は誰だって持っていた。
けれど、それを知って後悔したことは一度だってなかったから。
マリンの純粋で暖かな笑顔や、葵の芯の強さ。その中に懐かしいものを感じて泣けてしまうほどに、愛しくて切ない大切な、わたしの友人が、ここに居ることを感じられる世界。
出逢う人々一人一人の中に、彼女が……エーベが眠っているのなら、愛することも許すことも、難しいことなんかではなかった。それは自らの怒りさえ愛しいほど、しあわせだった。だから後悔はしない。
こんな小さなことでしあわせになれるんだと教えてくれた、マリンが、葵が呼んでくれる名前。
ヨハンが教えてくれた魔法や、ユニシスが作ってくれるオムライス。
仕方ねぇなと皮肉る時のアークの笑い方や、リュートのホッとする暖かい空気。
小さな身体で背負いきれないものを背負いながら立っているプルートの強さや、それを守ろうとしているソロイの覚悟、気が抜けないシリウスの視線と駆け引き。
慈しみあい、支えあい、そして憎みあったりする人々の、さまざまな側面を。
知らないで後悔するよりも、知ったことを喜びたかった。
その言葉にブルーが悲しそうな顔をするのを、こんなに時を隔てても簡単に知ることが出来るのに、こんな言葉を選んだ。
許してね。それでも。
「ねえ、それでも、わたしの一番はまだあなたで良いでしょう?」
珍しいほど晴れやかなアクアの微笑みに、ブルーがその両目を瞠る。
一番。そんなものは、今まで二人の間になかった言葉だった。順番なんてつけなくても良かったから。
好きなものは綺麗なもので、二人で作った世界にそれは溢れていて、でも疑いようもなく「愛しい」存在はお互いしか居なかったから、これまで順番などつけたことはなかった。
それを今、人である娘は新しく作るもののことを考えてキラキラとしていたあの時のように、面白いことを企んでいるような瞳で笑うのだ。
「……何?」
思わず問い返すと、彼女は少しだけ頬を膨らませる。
「あいかわらず、にぶいわね。……いいわ。じゃあ、わたしと一緒に生きて」
小さな両の掌が差し出される。自分とはあまりに違うそれ。
初めて見た時には悲しいと思った。これこそが取り戻せないものの最たる象徴なのだ、と思った。
すっかり青年期に入った自分の手指と、まだ子供らしいふっくらとしたその白い掌。
けれど、それでも目の前に彼女は生きている。
自分が見下ろせてしまう少女の髪は変わらずに銀色で、陽の光に透けてキラキラと輝いて、瞳の色はあの時のまま、銀髪に映える藤色。
変わってしまっていたら悲しかったかもしれない、何より愛した美しい、水底にあっても眩しかった少女。
胸が詰まる。
「ブルー」
促すように呼ばれる名前。名前なんて、意味がないと思ったけれど……。
「うん」
呼ばれて、返事をした。あの少女が付けた名前。
今までは何処か外側から眺めているように感じていたその名前が、自分を呼ぶものだと、何故かはっきりと分かる。
反発するような気持ちが音を立てて消えたのは……厳しく醜い人の世界で、それでも未だ、アクアが優しく手を差し伸べたから。
ブルーが迷うようにゆっくりと伸ばした指の先を、彼女が引き寄せて握る。
そうして、やはり笑うのだ。
「むずかしいことなんて知らないわ。でも、あなたがわたしにくれたものをわたしは信じた。あなたが注いでくれたものと同じものを。人の間に情があること。しあわせが存在することを」
生まれた時から二人。
もし一人で生きていたら、それが存在することを知らなかったら、信じることは出来なかった。
たった一つ違うものがあるだけで人は差別するから。
優れたものや劣ったもの。その差異が戦いを呼ぶこともある。
けれど、わたしは愛されて生きてきたから。今まで、しあわせだったから。
そしてエーベの愛を知っているから。
記憶がなくても何故かすんなりと受け止めることが出来た。大丈夫。絶対、きっと大丈夫だ、と。
時に憎んでも、苦しくても、泣いたって、きっと求めているものが見つかるのだと信じることが出来た。
「わたしが今しあわせなのはあなたのおかげなのよ」
魔法院に拾われたことは、万事が良かったと思う訳ではないけれど、きっと良いことで、けれど記憶がないことや帰りたい場所があるかもしれないこと。
足元を振り返っても歩いてきた道が見えない不安が、ない訳ではなかった。
それでも、何とか歩いてこられたのは。いつでも平気な顔を、していられたのは。
「だからしあわせになりましょう。エーベが、わたしとあなたが愛した〈人〉と一緒に」
これからも、憎しみは絶えないかもしれない。人は愚かなのかもしれない。
ダリスはアロランディアへ攻め入るかもしれないし、その中で傷付く人が居るかもしれない。
人一人の力は小さくて、弱くて、何も変えられないのかもしれない。
けれど生きていきたいと望むこと。立ち向かおうとする気持ちや、立ち上がることが出来る瞬間はきっとある。
そんな世界で、だからこそ生きている。だからこそ愛しいと思う。
「無責任でいいじゃないの。救おうなんて思わなくていいのよ。救われたいなら、救われたいものが何とかするの」
創世神としての重責など、一人で負うものなどではない。
そして今はもう、人に対する責任を負うものは誰も居なくなってしまった。いや、誰でもが負うものになったのだ。
人が生きていることの責任は人自身が、それぞれが負っているのだ。
エーベが空へと上がって、人の子の中に分かれていってから。
全てを重く受け止めていたブルーにとって、それは信じがたいほどすとんと胸に落ちてくる言葉だった。
あまりにも自己中心的に取れる、責任を放棄しているのかもしれない言葉。
けれど、突き放した言葉は救いに聞こえた。あっけらかんと言い放たれた言葉は、信頼に聞こえた。
……可笑しいな。
ブルーは久しく浮かべることがなかった微笑を浮かべる。
人の中でアロランディアの体制が特に嫌いだった。世界を汚すだけ汚して、肝心なところで神の名を呼ぶ。そのシステムが許せなかった。
けれどその半面、期待している人々の信仰が苦しくて、逃げ出したいけれど、捨てることが出来なくて。何度も何度も踏み切ろうとして、その都度迷ってきた。
ある時は迷子を拾ってしまって、心が動いたりもした。
目を背けようとしても出来なくて、待ってしまう愚かな自分を叱咤しても、何度も……何度も。
どうして出来ないんだろう。何故、いつまでも待っているんだろう。期限なんて定めなかったから、踏ん切りが付かなくて、だから?
その問いの答えを返すのは、他の誰でもない――。
「……アクア」
噛み締めるように名前を呼んでみる。空を守る彼女の名前が水を表わす理由は、きっと明白で、一つしかない。
それでもきちんと呼べなかった名前を今、呼んでみる。
手と手、指と指で繋がった少女は、少しだけ頬を赤らめて微笑んだ。
こんなほんの小さなことでも、喜びも悲しみも分け合って、生きていけるなら。
彼女の細く小さな指が握っていたその手を、今度は自分から握り返す。強く。
一つ心に決めたら、簡単なことだね。
あれだけ嫌だと思った彼女の「人としての名前」も、その姿も、今はもう嫌いになどなれない。
ブルーは晴れやかな表情で、真っ直ぐに前を見た。
「しあわせに、なろう」
これまでの長く孤独な日々。
辛くて、悲しくて……一人で。ずっと待っているつもりで、だんだん何を待っているのかも分からなくなってしまったけれど、本当はこの時を待っていたのかもしれない。
どんなものでもしあわせは必要なはずだ。それはたった一人の存在でも良い、たった一つの宝物でも良い。
ブルーにとっては、そう。この小さな半身こそがしあわせの象徴だったから。
初めて眉も顰めずに自分の目を見つめる氷の溶けた瞳に、アクアの表情がぱぁっ、と輝く。
別れた時よりもずっと、逞しい存在感を放って。
「うん……!」
こうして二人で微笑み合うのが幾年を隔てているのかなど関係がない。
再び無事にめぐり会え、生きていることこその喜びを。
きっと人はそれを、しあわせと呼ぶんだね。
二人で手を繋いで見る、空と海の彼方。水平線。
今この瞬間、初めて見るような思いで見つめている小さな視界が、世界の全て。
新しい世界へと駆け出す二人の足音は、あの頃と少しも変わらず……道のずっと先まで続いていた。
ふー……。途中放置しすぎて何を書きたかったんだかすっかり忘れていたアクアブルー小説でした。でも辿り着きたかった結末は多分同じ……だと思います。
文字通りアクアとブルーを突き詰めてみたのですが、カップリングものではございません。
双生神のような二人の、分かりあう瞬間を自分的に考えてみたかったので。エンディングは無視です。と言うか寧ろ全イベント済み別エンディングみたいな。
魔法院にアクアが全幅の信頼を寄せていないのはその為です。
ラストは人間の「きょうだい」となるので、ブルーエンディングのようなものですが。
恋愛感情とかそういうものは越えた関係でいて欲しい。だって「はんぶん」ですよ? これこそ如実にこの二人の絆の深さを物語りますよね。
幸せになってもらいたいなぁ。
特にこの二人にその意識が強いのは、バッドエンドになると彼女が消えてしまうからでしょうか。
……取り敢えず言い訳をさせて頂きますと、「エーベを愛した」と書きましたが、アクア×エーベとかじゃないです。(当たり前だけど)
だからってエーベ×アクアでもないです(笑)。誓ってレズじゃないです。
ただ、アクアがエーベに心を奪われたのは確実だからこういう書き方をしました。
友情だって愛の一つの形だし。
ブルーを除け者にするのもなんだと思いつつ、アクアとエーベの関係も大好き。アクアが凄く純粋な初めての友情をエーベに捧げていることが、記憶を失くしている時でさえ伝わってくるから。
だからこそ、マリンや葵に関しても書いてみました。
アクアが初めて会う人たちにも警戒心がなく行動できるのは多分エーベとのことが無意識に思われるからではないかな、と。エーベとの友情がどれほどの間結ばれたのか分かりませんが、マリンと葵と付き合うことがアクアの幸せに繋がると良いなと思う。
あと男性陣とブルーが仲良くなれると良いなとも思ったり。続きが書けたら書きたい。
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