Ogre
わたくしはいつか死ぬその日の為に生きている。
いいえ、本当は誰でもがそれを迎える。誰でもが死による結末を約束されている。
けれどわたくしは、この存在が始まった瞬間から既にそれを望まれていた。
生きられる保障などどこにもない。それは前からそうだったけれど、人類の代表になってしまってから……本当にもう、わたくしが生きる希望は何一つも残ってはいなかった。
現在は人族が押しているから、この戦いには勝利して終止符を打つことが出来る。そして……そう遠くない未来、わたくしは死ぬことになるだろう。
恐ろしい力で人族を守ってしまったから、恐ろしい力を人族の前に示してしまったから。
その現実を知っても、驚くほどこの胸は痛まなかった。
麻痺してしまっている感覚。
それでも、良い。生きている証を守って死ねるなら。わたくしが生かされているその意味さえ果たすことが出来たなら。
けれどたった一つ望むことを許されるとしたら……せめて、人族の手にかかるより、あしきゆめの手にかかって死にたかった。
幸福だったとは言えない人生だった。それは人生とすら呼べないものだった。
そんな中で祈りを聞き届けてもらえるのなら、最後の幕引きを同族に降ろされるのはあまりにも悲しいから。
だから、祇園山の洞にあの人が現れた時……わたくしは自分でも信じられないほど穏やかな表情で微笑むことが出来た。
「祈りが……通じたのですね」
声に僅かな喜びが滲んだ。
右手で涙を隠した異形の怪人……デクが、目を瞠る。
何かを恐れるように、視線を合せようとはしない。
けれど血の色をした瞳から零れていく大きな身体に不似合いな涙は、心に落ち着きを与えてくれた。
「わたくしを、殺しに来てくれたのでしょう?」
物騒な言葉だった。唇に乗せる瞬間、凪いでしまったと思っていた心が微かにざわざわと騒いで、まだ諦めていないことを知らせてくる。
でも駄目。もう、後戻りはしないの。
ずっと待っていたのだもの。ずっとずっと、気の遠くなるほどの時間を待っていたのだもの。
もっと我侭を言って許されるのなら、どうせ死ぬのなら牢から出て死にたかったと思う。せめて最後くらい思う存分風を受けて死にたかった。
けれどこれで良かったのだ。仕方のないことだった。
そんなことは一番叶わないことだとわかっている。ただ、ここで死ぬくらいなら戦場に出た時に死んでしまえれば良かったのにと、運命に逆らえない生真面目すぎる自分を僅かに呪うだけで。
しかし、この言葉に鬼は肯定も否定も表さず、ただ涙を流した。
「う、うううぅぅ」
唸るような声。あとからあとから、赤い瞳から絶えず雫がこぼれ出る。
まるで……子供みたい。
そう思ったら、これほど大きな身体も瞳の色も一向に恐ろしいと思うことも嫌悪することも出来なかった。
「何故泣いているんですか?」
親が子供にかける言葉のように優しい声で尋ねれば、彼は身を縮こまらせる。
けれど戸惑ったような声は、それでも答えを返してくれた。
「か、悲しいがら」
たどたどしい答え。声は決して耳に聞きやすいものではなかった。ところどころ濁るような。
今から殺そうとしている女の問いかけに、それでも返したその声は。
当たり前のことを心の底から嬉しいと思ったのは、言葉だけではなく心も通じるような気がしたから。
人を殺すあしきゆめ? 心を持たぬ化け物?
心の中で繰り返す否の声。いいえ、いいえ、そんなことはない。
敵であるこの人すら、これほど優しい。わたくしの為にこの人を遣わしてくれた世界は、きっとだから、優しい。
「何故、悲しいんですか」
今までよりもずっとずっと、優しい気持ちになれた。ほんの僅かでも、傷付いた心が癒されて。
気持ちそのままの眼差しを向ければ、異形の怪人はやはりきちんと答えてくれる。
「ひ、人が、死ななげれば、生ぎいげないがら」
彼はシオネ・アラダを、人族の代表を殺す為にここに来た。そうでなければいけない理由がある。
恐ろしいと思う気持ちや、憎しみ。そういったもので殺されるのではなく。
それは驚くほどの安堵をシオネ・アラダに与えた。
ではこの人を生かす為にわたくしは死ぬのか。
彼もきっと同じなのだ。生かされている。殺す為に生きている、悲しい生き物。わたくしと同じ。
今までの意味のない生や、必ず同族に殺される未来より、それはなんて甘美で愛しいものだったのだろう。
「……あなたは、優しいあしきゆめなんですね」
微笑みかけると、堪えきれなくなったように彼は大きな嗚咽を洩らした。
「あ、あああぁ」
赤い瞳からポロポロと零れ落ちる涙を、何処か愛しげに優しく見上げ、軽く手を差し伸べる。
「綺麗な涙……あなたの自由にしてもらえるのならば、わたくしも、幸せでしょう」
「ぎ、綺麗……? 俺が……」
信じられないと言うような声が返ってくる。当然だろう。人族とあしきゆめは相容れないように出来ている。でも、信じて欲しい。
シオネ・アラダは真摯な瞳で怪人を見上げた。
「重要なのは、心なのですよ。何よりも綺麗なのは、優しい心……」
どれだけ外見が美しくても心が醜いものが居るのなら、どれほど外見が醜くても心が美しいものだって居る。
今もほら、瞠られた瞳は確かに赤いけれど、それはあしきゆめの証でもあるけれど、禍々しいとは思わない。とても暖かく感じる。
だからどうか恐れないで。怯えないで。わたくしは、怖くないから。
この心の中を遥か何処まで探しても、今はもう穏やかな気持ちしか見つからないから、大丈夫。
「さあ、名前をあげなさい。人族の代表を、討ち取ったと」
瞼を閉じてみせたけれど、想像とは違う余りに暖かな最期に眦を涙の雫が滑り落ちた。
悔いはない? 後悔は、ない?
心に問い掛けるまでもなく、答えは無慈悲に、簡単に出る。そんなもの、あるに決まっている。
本当は、この人をもっと知りたいし、話もしたい。
猫大将がいつでも眠れる膝をずっと与えることが出来れば良いと思うし、小神族の姫たちの行く末だって見守りたい。阿蘇の大神にお礼を言って、せめて別れを告げたい。
けれどそれは決して出来ないと言うことを、何よりも自分自身が痛いほど理解していたから。
閉じた瞼の裏で、消え行く未来を見据え。
確かに振り下ろされたと思った怪人の腕は、しかしシオネ・アラダを切り裂くことも、傷付けることすらなかった。
代わりにその手が破壊したのは、彼女の両手足を繋ぐ鎖。
丸く見開かれ見上げるその青い瞳に、デクはたどたどしく言った。
「逃げ、で」
この純粋な鬼は、シオネ・アラダを縛めているものは細い手首や足首に絡められた無粋な鎖だけなのだろうと思っているのだ。
彼女をここに捕らえているのは物理的なものに留まることではなく、人族全体の、最早呪いとなるほどの悪意なのに。
けれど――。
シオネ・アラダは困ったように微笑んだ。
世界、運命、神。この中のどれがこんな采配をしてくれたのだろう。
死を覚悟して待つだけの身に、最期にこんな幸福を用意してくれるとは。皮肉だと思いながらも、遠ざけることが出来ない目も眩むような幸福を。
涙が出そうだった。それは生まれてから今まで一度も流したことのない、深い喜びの涙。
「……有難う。でも、良いのよ」
ここから逃げて生き延びると言う選択肢だけは、最初から自分の中になかったことに気付いて皮肉な思いがした。
そう。逃げてもどうにもならないし、第一逃げられない。
怪人はその言葉を遠慮と受け取ったようだった。なおも重ねる。
「俺、初めで綺麗て言われだ。あんだ、良い人」
わたくしはただ見たままを口にしただけ。
綺麗だと言っただけなのに。
ただそれだけのことで、わたくしはあなたが「死ななければ生きていけない」ことを覆してしまうの?
そんな風に言ってもらえるようなことは、何一つ出来てはいないのに。
「良いの」
優しく、優しく、言い聞かす。けれどデクは納得がいかないようだった。
「あ……あ、なで。良い人、良い人」
どこまでも純粋な好意の言葉に、悪意も何もない言葉に、シオネ・アラダは悲しい顔をした。
こんなに無垢な彼にこの現実を知らしめるのは酷だと思う。
けれど……事実は変えられない。
「わたくしの人族はね……良いわ。足を、見て。ほら、わたくしは歩けないの」
たった今彼が断ち切ってくれた鎖がじゃらりと冷えた音を立て、きものの裾から覗く足。深い深いところに隠したわたくしの心と同じくらい醜い足。
それを目にした瞬間、デクはひゅっと息を呑んで黙り込んだ。
傷付けてしまったと思う。
泣いてばかりの心優しいあしきゆめ。彼に見せてしまった人族の現実は、わたくしが考える以上に重かったに違いない。今までのどの嗚咽よりも悲しい泣き声が漏れて、透明な涙が後から後から零れ出る。
初対面の女の為にこうまで泣くことができるなんて。
足が二度と動かないことは、わたくしの悲しみ。わたくしの痛み。彼にとっては痛くも痒くもないことで、どうでも良いはずのことなのに。
「綺麗な涙……。優しいあしきゆめ。あなたの、名前は?」
「デク」
「あなたには、似合ってないわ。もっと良い名前を付けてあげる。最初に名、ありき。名前がすべてを決めるのよ。あなたは童。生まれたばかりの童。この祇園山の洞にて生まれた、童子なの」
祇園童子。
それは自分を縛めている山の名称を冠する名前だった。
けれどここで彼と出会って、ここで彼が生まれたと言うのなら、それはなんて愛しい名前なのだろう。
デクは辿々しい様子で繰り返す。
「ぎおん、どーじ」
「祇園童子」
導くシオネ・アラダに、素直な反応を返す声。
「ぎおん、どじ」
「祇園童子」
「ぎおんどうじ」
「良く出来ました」
「え、えべべべ、俺、俺、デク違う。祇園童子、祇園童子」
不器用に嬉しそうに笑う顔に、言いようもない感情が襲う。祇園童子。初めてわたくしの心を動かしてくれた、あしきゆめ。
この瞬間思ったことがある。
せめてもう少しだけ、生きていたい。わたくしにこんな幸せをくれた彼の姿をもう少しだけ見ていたい。このまま別れたくない。
例えどんな終わり方でも良い。今初めて生きる気持ちになったわたくしの心を大切に抱いて。
この道の向こうでわたくしはきっとこの人を置いて死ぬ。人族に殺されてしまう。一番厭うたはずの結末を迎える。
なんて残酷な女。それでも。
初めてわたくしが自らの手で選ぶなら、この道が良い。この道以外はもう要らない。
それでも許されるなら……祇園童子。もう少しだけ、わたくしに付き合ってくれますか?
欲が出たの。
あの日死すら待ち望んでいたはずのわたくしが、あり得ない夢を見てしまう。
このままずっと、もう少しだけ彼と一緒に居たい。
笑っている顔が見たい。
名前を呼びたい。呼ばれたい。
声が聴きたい。
……触れてみたい。
あの日までは手に入らなかったもの。手に入れずに終わるはずだったもの。
誰よりも何よりも恋しい、愛しい、わたくしの世界。
わたくしの希望。
わたくしの夢。
泣かないで。
わたくしは幸せでした。
あなたと出会えずに生を終えることに比べたら、信じられないほどの幸せを貰いました。
……有難う、童子。
あなたがいてくれたから、わたくしは初めて生きる人間となれたのよ。
尽きぬ感謝を。
そしてどうか……幸せで居て下さい。
誰かと生きて、誰かと笑って、時には怒っても泣いても、いつもあなたの心の中が幸福で満たされているように。
……愛で、満たされているように。
祇園とシオネの馴れ初めを、シオネ視点で。
心情描写がメインなので、同じシーンでもさほど詰まることなくすらすらと書くことが出来ました。まあお読み下さる方は「くどい……」と思われたかもしれませんが(笑)。
デク編とは違う場面も欲しいかなと思って「祇園童子」と名付けるシーンも入れてみましたが……さすがにこれが瀬戸口かと思うと「えべべべ」と笑わせることが難しかった……(汗)。
実はこの連作、デクの序文とモノローグを書きたいなと思ったところから書き始めた話です。
もともと祇園童子の話自体あまり書かなかったので掘り下げてみたいと。
そんなこんなで祇園童子側の話を書き始めているうちに、ふとシオネの方も面白そうだと気付いてやってみました。
書いていたら等身大のシオネ(私なりの)が徐々に見えてきて、楽しく書けました。
この二人のほのぼの幸せそうな頃も書いてみたいですね。
さて、次に瀬戸壬生へと続く予定なのですが……書けるかなー。
お手数ですがブラウザバックでお戻り下さい。